1999/03/03(KIX→バンコク)

ラオスという国に初めて興味を持ったのは、以前インドで出会った日本人に、「メコン川を下りながらガンジャをキメると最高なんだよなー」と聞いた時からだった。特にガンジャをキメたいと思ったわけではないが、漠然とゆるゆると流れるメコン川をのんびり下りたいと思うようになっていた。そこで今回、学生時代最後の旅として、ラオスのフエイサイからルアンパバーンまで、メコン川川下りを決行した。

春のような暖かい日差しの中、関空に向かう。1:40PMくらいに到着。Check inを済ませ、今回は両替をBangkokで行う予定なので、そのまま出国。

関空→ソウルはKE726。機材はA300だった。「旅行者として、1人でこうして関空で待つと言うことももうないかもしれない」と関空の出発ロビーでBoadingを待ちながら思う。

飛行機は少し遅れて出発。ソウル着は17:40PM。ソウルには何度も立ち寄っているが、それでも、空港に降り立つ時は、小さな島国からユーラシア大陸に足を踏み入れた感動がある。また、日本人の多かった機内から出て(それでも日本人は多いが)孤独感も感じる。空腹ではないが少しでも食べておこうと思い、1000円だけWonに両替。うどんを食べる。

ソウル→BangkokのKE653はA330できれいだった。機内で隣り合わせた人が、奇しくもラオス出身の人だった。なんとなくこの旅はうまく行きそうな気がした。色んな言葉を教えてもらった(例えば、「こんにちは」は「サバディ」、「ありがとう」は「コープチャイ」といった感じ)。

Bangkokの空港でバーツに両替する(今回の旅はバーツを中心に使う)。両替後、両替のカウンターの上に、全財産が入った財布を忘れるという大失態を犯す。すぐに戻ったから良かったものの、肝を冷やす事態だった。旅に慣れたわけではないが、気が緩んだのだろうか。身が引き締まった。

この日は、ドンムアン空港で夜を明かすことにした。

1999/03/04(バンコク→メーサイ)

空港内のバーガーキングの横で、6:30AMくらいまで眠った。ここはソファがあり、空港で夜を明かそうとするバックパッカーには人気の場所だ。今回も多分にもれずソファは取れなかったので、一人、付近の床にごろ寝。

起きて電話をかけるべきところにかけ、コーヒーを一杯飲んで鉄道駅に向かった。駅に着くと列車がすでに到着していた。切符を買ってくると、「Bangkok行きだから早く乗れ!」とせかされ、動き始めた列車に飛び乗った。

列車は冷房が効いていて、通勤客で一杯だ。その混雑を見て、タイ人のパワーとポテンシャルを感じる。列車には「JR西日本」と書かれてあった。日本の中古列車までが、タイで使われていた。

ファランボーン駅に着いた。これからビザを取るためにLaos大使館へ向かう。日本でラオスビザを取ると時間もかかるし高額であるのに対し、Bangkokでは即日で、しかも日本よりも安く取れる。列車で行くことにした。駅で大使館の場所を聞き、列車のチケットを買った。

9:40AMの発車まで時間があるので、朝食を取る。ご飯の上にハムや焼豚のようなものが乗ってたれをかけたもの。甘いがまあまあうまい。

ホームで発車を待つ。湿った空気に汗がじわりとでる。列車は結構遅く、午前中にビザの申請ができないのでは、と心配になった。クローン・タンの駅で降り、タクシーで大使館へ。11時くらいに着き、無事に申請を済ませる。ビザは即日発行。1500Bは高かったが、あっけなく申請できた。

大使館で田中さんという人に出会った。Bangkokの大学で勉強しているのだと言う。ダウンタウンまで戻って時間をつぶすことにした。WTCのKFCで一休みし、田中さんが通っている大学まで歩いていった。田中さんの友人らと、大学の学食らしきところでタイ飯を食べる。辛かったがうまい。

KEに帰りの便のリコンファームを済ませ、大使館へビザを受け取りに戻る。Taxiに乗ると気分が悪くなるのは、空気が汚れているからだろうか。交通渋滞はすさまじい。また、Bangkokは暑い。汗だくだが、今夜は北へ向かうバスに乗り込む。風呂なしだ。

ビザを受け取り、田中さんに北バスターミナル行きのAC(エアコン)バスを教えてもらい、分かれる。しかし、間違ったところで降りてしまい、別のバスで向かう。今回は窓全開バスだ。やっぱりこれだ!最高に気分がよい。僕は全力で走る、窓全開バスが大好きだ。

北バスターミナルで、チェンコンに行くかチェンセンに行くか迷った。しかし、先を急ぐと後悔することが多々あるし、チェンコン→チェンセンの景色は絶景と聞くし、メーサイ(ミャンマー国境)にも足を伸ばしたいし。と言うことでチェンセンに行くことにした。昨日の寝不足を解消するためにもACバスにした。ちょっと高いが。体がべとべとする。

バスはエアコンが効き過ぎて極寒だった。2時間半ほど、Tシャツ一枚で過ごしたが死にそうだった。音楽もうるさい。そのような中でいろいろと考えた。もう、一人旅は必要ないんじゃないかという気がしてきた。いろんな人が心配してくれることも受け入れられる気がした。それと自分を試すことの釣り合いが崩れてきているような気がした。自分にとって旅とは何なのか、考えなければならない時だと感じていた。

1999/03/05(メーサイ→チェンコン)

朝6:30、メーサイに着いた。ここではミャンマーの日帰りのビザを国境で取ることができる。早速ソンテウで国境へ向かった。

ビザ代の$5を両替するために、銀行があく8:30まで待って、ミャンマーへ。わずか30mほどの国境の川を渡ると、タイとは雰囲気ががらりと違った。確かにタイほどは発展していないようだし、街ではよく音楽が流れている。インドのように町が香辛料のような匂いに溢れている。街並みは仏教国であることもあり、インドほど派手ではない。人々もさっぱりしていて非常におだやかだ。観光客ずれしていないとでも言おうか。

クレープのようなものを食べたのだが、脂っこいがうまい。ミャンマーの通貨、チャットに両替したはいいが、どの店でもバーツしか受け取ってくれない。屋台のようなところでビールを飲んだ。濃くてうまかった。この付近のビールはどれもしっかりした味だと感じる。

近くの寺院で日記と手紙を書いてのんびり過ごす。メーサイに来るまででのバスの中では疲れのせいか、ちょっと旅に対してネガティブになっていたが、バスの中でよく眠れたので元気が出てきた。最近は、トイレでも手を使って水で汚れを流している。その後、濡れたままパンツをはくと、少々気持ち悪いが。

パゴダに行くと一人旅らしき日本人のおじさんにあった。その後裏通りのマーケットのようなところに入り、焼きソバを買う。そこで、また日本人に会い、ラオス国境に近い、チェンコンまで一緒に行くことになった。

ミャンマーを出国する。国境のメーサイ川では、国境の友好橋以外のところで川を渡って勝手に国境を越えている人を見かける。地元の人にとっては、国境などはどうでもいいことかもしれない。実際にイミグレ以外に国境を感じさせるところはない。川を挟んで一つの町のようである。ただ、ミャンマー側の物価は、バーツでもタイよりも安かったが…。

ミニバスでチェンコンの手前、チェンセンまで行くことになった。風が爽快で気持ちが良い。チェンセンについて、チェンコン行きのバスを探し、出発直前のバスに飛び乗る。バスの中でオーストラリア人二人と話しながら約1時間半でチェンコンに到着。タイ、ラオス、ミャンマー国境となる、いわゆるゴールデントライアングル付近も通ったが、イメージしていた危険な雰囲気は全くなく、観光地と化している様子だった。

同乗の日本人が詳しいようで、知った顔でいろいろと教えられた。そのままメーサイであった日本人と部屋をシェアすることに。Rich Guest Houseと言うところである。

この日は、対岸のラオスを眺めながら、メコン川のほとりで、日が暮れるまでのんびりしていた。今は、乾季で水位が低い。子どもが泳いで遊んでいる。時々スピードボートが凄まじい音を立てながら通り過ぎていく。明日からはこの川をボートで下るのか、と思うと胸が躍ってくる。

夕食は麺を食べ、シンハビールを買って、宿へ戻る。ビールを飲みながら、読書をし、日本人らと会話をして時間を過ごす。シャワーは水のみでとても冷たかった。それと、宿のトイレは、洋式の便器なのに、タイ式で尻を洗うタイプで、非常に使いづらかった。

チェンコンの夜は冷え込んだ。

1999/03/06(チェンコン→フエイサイ→パクベン)

7時過ぎに目が覚めた。昨日の夜は蚊がいて、途中で蚊取り線香をつけた。起きるとRoom Mateの日本人が、ラオス行きをやめてカンボジアに行く、といって出発した。少し肌寒かったので麺を食べようと思ったが、どこも空いておらず、朝食はホテルで食べることにした。

国境の船着場まで1kmほど歩いた。出国を簡単に済ませ、ボートで対岸のフエイサイへ向かう。入国時に1000バーツを公式レート(ラオスは闇レートが多い)で、ラオスの通貨、キープに両替した。1$が約6000Kである。

いよいよここから、古都ルアンパバーンまで、Slow Boatでの川下りの始まりである。Slow Boat乗り場まで1kmほど歩く。乗り場には数人の欧米人がたむろして何か船頭と話し込んでいた。なにやら今日はボートが出ないらしい。後二日待たないと出ないらしい。祝日か何かなのだろう。しかし、そんなに待つ猶予はないし、ここにいてもそれほどすることはなかった。欧米人らと協議し、仕方ないので、途中のパクベンという村まで、スピードボートに乗り、そこでスローボートに追いついて、翌日スローボートでルアンパバーンまで向かうことにした。

結局みんなでスピードボート乗り場に向かう。値段もスローボートの倍する。スピードボートは、まさしくスピードボートだった。一つの船に6人くらい乗っただろうか。ヘルメットをかぶらせられる。僕はたまたま一番前に座った。物凄い爆音を立てながら、水面をぶっ飛ばす。暴走族さながら。会話なんてできる状況ではないし、時折波にぶつかってボートが飛び跳ねる。メコン川とはいえ、このあたりは上流に位置し、流れもそこそこ速く、周囲は岩もごつごつしている。その岩にぶつかりそうで肝を冷やす。爽快だが休まる暇がないのである。

しかし、周囲の景色は確かにすばらしかった。馬鹿でかい奇岩がごろごろしている。時折、少数民族のものであろう村を通ったり、水牛の群れをみたり。象もいる。数ヶ月前までは、社会主義国であるラオスを旅するときは、郡を越えるたびにチェックポイントに行って、スタンプをもらわないといけないとのことだったが、今回はそれが廃止になった直後だった。何度か給油をして、午後3時ごろ、パクベンについた。同乗してきた欧米人ら12人で、一つのゲストハウスに泊まった。一泊、ダブルベッドで1人5000K。カナダ人のおばさんと同じベッドに寝させられる。竹作りの宿で屋根も竹で葺いており、気持ちが良い。

パクベンは斜面にできた村で、非常に小さかった。江戸時代の小さな宿場町といった感じだ。一本通りがあって、その両側に個人店が並んでいる程度。電気もろくに通っていないらしく、ところどころで発電機の音がする。町の食堂でポーク野菜丼のようなご飯を食べ、通りを散歩して、暗くなるまで、本を読んだり日記を書いたりして過ごした。

宿で、一緒にフエイサイからきた欧米人らに、ルアンパバーン→ヴィエンチャンのバスについて聞いた。カシ峠というところでは山賊が時々バスを襲い、旅行者が殺されているという情報を聞いていたからだ。もし、まだ危険なのであれば、その区間は飛行機にしようと思っていた(飛行機もある意味、危険らしいが)。彼らの話によると、今のところかなり安全だと言うことだった。現地でもう一度情報を収集しなければならない。

夕食のため、もう一度通りへ出て、一緒の欧米人と飯を食う。その後シャワー。相変わらず冷たい。宿でビールを飲む。ビアラオはなかなかいける。そこで宿のラオス人青年と片言で話す。LaoLaoという焼酎を飲む。50度くらいありそうな、きついお酒だった。ラオス人は日本語を教えて欲しいらしく、挨拶程度の日本語を教えた。こうして、ラオスが俗化していくのかと思うと、少々戸惑ったが。しかし、彼らは非常に熱心だ。日本語や英語を覚えることが、旅行者がこれから増えるだろう生活に直結しているからだろう。

隣で馬鹿騒ぎをしていた欧米人にまたLaoLaoを飲まされ、ちょっと酔って宿の中に戻り、日記を書く。電力が不安定で、裸電球が明るくなったり暗くなったりする。午後9時半に発電機は止まった。

1999/03/07(パクベン→ルアンパバーン)

朝7時ごろに起きた。鶏の声が凄まじかった。ゲストハウスで急いで朝食を済ませ、歯を磨いて出発。今日はスローボートで一日かけてルアンパバーンへ向かう。

船着場に着くと、深い谷を流れるメコンの川面は霧に包まれていた。非常に神秘的で美しい光景だ。イミグレーションでスタンプをもらい(このあたりは今回廃止された制度がまだ残っているようだった)、チケットを買う。ボートには20人くらい乗れるようだ。

ルアンパバーンへ出発する。後ろの席でエンジン音がうるさかったが、スピードボートに比べるとよっぽどましだ。とてものんびりできる。走り始めてすぐ、どこからともなくガンじゃが回ってくる。「このことか!」。いい感じである。今日も途中象がいたり水牛がいたり。ゆったり揺られながらぼーっとしているだけで飽きない。途中一度トイレ休憩で止まり、午後3時ごろルアンパバーンの上流にあるTam Ting Caveという洞窟に着く。岸壁にある洞窟に無数の仏像が飾られている。お土産屋すらない、静かなところだった。スピードボートの爆音が時折聞こえるが、これもラオスらしさのような気がする。

午後5時ごろルアンパバーンに到着。ここで、二日間旅してきた皆ともバラバラとなる。 船に乗っているときは仲間意識のようなものも感じられたが、今はいつものように、格別別れの言葉もなく、散々にゲストハウスを探しに行く。僕は、1人のラオス人に10000Kの部屋があると紹介され、バイタクで連れて行ってもらったが、町の中心からずっと離れており、またメコン川の近くに泊まりたかったので、やめることにした。トゥクトゥクで街の中心に戻り、歩いているとCafeに一人の白人がいたので、安い宿を聞いてその方面に歩いてみた。

宿の名前は「Suankeo Guesthouse」。ドミトリーが7000Kだった。なかなかこぎれいで、ホテルの人も親切だ。同室は、先ほど道を尋ねたオランダ人のChrisだった。11ヶ月旅を続けていると言う。

Small Marketの近くで、闇両替を探した。ずっと交渉したが結局1B=170Kまでしか上がらなかった。1000Bを両替。両替商に飯のうまいところ、ビールの安いところを聞いて別れた。

夕食は、もち米とおかずを買った。もち米もおかずもビニール袋に入れて売ってくれる。なかなかいける。その後、両替商に教えてもらった店にビールを飲みに行く。メコン川沿いで、ビールはピッチャーに入れてくれる。質としては余りよくないものと思われるが、かなり安い。

ルアンパバーンのメコン川を見て、インドのバラナシを思い出した。のんびりできそうな場所だ。そういえば、この街では信号を一つも見かけていない。

1999/03/09(ルアンパバーン)

Chrisに聞いたところによると、カシ峠での最後の襲撃は1996年だと言うことだった。今はかなり安全だとのこと。ヴィエンチャンに向かう途中にバンビエンという風光明媚な場所があるという、ヴィエンチャンに向かう前に立ち寄ってみようと思った。

朝5時半に起きた。ルアンパバーンでは、毎朝お坊さんが托鉢にまわるという。それを一目見たかったからだ。Chrisも一緒だった。6時ごろ、大勢のお坊さんが列をなして歩いてきた。壮観だ。人々は米などをお坊さんに配っている。

朝食はラオス風サンドウィッチ。ラオスはフランスの支配を受けていた歴史もあり、フランスパンがよく売られている。それにラオスのおかずやソースがかかっているものだ。なかなかうまい。そのままChrisとともに探索に出かけた。

Marketをまわり、メコン川沿いを適当に歩く。多くのお寺がある。シンプルで日本に通ずるところもあり、落ち着く。途中、爆弾の殻を花瓶代わりにつかっている光景を見た。ベトナム戦争に巻き込まれた歴史を垣間見た。Chrisは仏教圏の人間ではないためか、すいすいと進んでいく。

昼は、Market付近の食堂で面を食べる。肉には、ハエがこれでもか、と言うほどたかっている。アフリカで売られている肉は、ハエで真っ黒だ、という話は聞いたことがあるが、ラオスでも同様だった。物凄い数のハエである。サンドウィッチとビールを飲み、3時ごろまで昼寝。幸せだ。

夕方起きて、夕日がきれいだと言うプーシーの丘へ登る。焼畑のせいか、空気が煙っており、それほどきれいな夕日は見れなかったが、町の眺めは良かった。

帰りにChrisとオムレツのようなものを食べ、明日行く予定のクアンシーの滝へ行くトゥクトゥクを予約した。近くの食堂で、明日シェアできる人がいないか探したが、誰も見つからなかったので、Chrisと二人でいくことにする。ビアラオを飲んで寝た。

1999/03/09(ルアンパバーン)

朝7時半ごろ起床。Small Marketに朝食を探しに行く。麺ともち米で1500K。腹一杯だ。今日も雲ひとつない快晴である。今日はChrisとクアンシーの滝に遊びに行く。

Chrisと二人でトゥクトゥクを探す。二人で一日45000Kで折り合いが着いた。いざ出発。3輪トゥクトゥクなのであまり速くない。道は舗装されておらず、土埃がもの凄い。

途中、NAXAOという小さい村に寄った。茅葺の家ばかりで、七面鳥や鶏がたくさん放し飼いにされていた。小学校があったが、小さな子供がお金をせびってきたのには少々ショックだった。ラオスも観光客が増えるにつれ俗化しつつある。しかし、皆、元気のいい児童ばかりだった。僕らが顔を見せると皆興味深そうにニコニコしながらこっちを向く。戦時中の日本を知らないが、こんな感じだったのかな、と想像させられる雰囲気であった。

トゥクトゥクは更に30分くらい走ってクアンシーの滝に着いた。観光客はほとんどいない。滝は3段ほどになっているのだが、中段に水がたまっており、遊べるスペースがある。水着にこっそり着替えて、滝壷に浸かった。水は冷たい。ヌルヌルする岩の上で日光浴をしながら日記を書いた。霧のような水しぶきが心地よい。

その後、観光客がきたのでChrisが上流に行こう、と言い出した。ここでChrisとはぐれてしまったが、地上で一時間ほどのんびり待っていると、Chrisが降りてきた。地上では30分ほど昼寝をした。

2時半ごろ、トゥクトゥクでルアンパバーンに戻った。帰って、昨日行けなかった博物館に行ってみたが、今日も空いていなかったので、Chrisと別れ、一人で寺院をブラブラと回った。18歳の僧侶とであった。教師になりたいという。この国では、20歳まで僧侶を経験するのだ、と聞いたことがある。伝統を守るか、それとも発展を望むのか、そうであれば皆僧侶をやっている場合ではない。兼ね合いが難しいと感じた。

夕方、宿に帰り、Chrisに薬草サウナに案内してもらった。薬草の匂いが良かったが、こちらでは、サウナの後、汗を洗い流さない。薬草の成分が流れるからだそうだ。気持ち悪いと思っていたが、案外体もさらさらで、それほどでもなかった。

そのあと、Chrisのお薦めのレストランへと行く。そこで、パクベンで部屋をシェアした人々に会った。二日間、同じボートの上で過ごしたので、さすがに覚えている。このような再会が嬉しい。

今夜も1人でメコン川沿いの食堂でビアラオを飲んだ。隣で大騒ぎしている日本人がうるさかったが、カナダ人の老人が来たので雑談をして時間をつぶした。夜風が気持ちいい。

1999/03/10(ルアンパバーン)

今朝はゆっくり寝た。8時ごろ起きて昨日行った麺の店で麺とご飯(もち米)を食べた。ちょっとぬるいが安くてうまい。帰って、テラスでお茶を飲みながら一休みする。洗濯をした。旅先で、朝、洗濯をして干す時、いつも最高に気持ちがいい。今日は、ルアンパバーンの最終日。一日のんびり過ごすことに決めた。

同室の日本人と博物館へ行ってみた。午前中の閉館まで15分しかないことを入ってから知らされ、急いで周ったので何も見れなかったのが残念だった。その後、Marketに行って両替。今回は1B=175Kで手を打った。

午後は、Wat Xiang Tongと言う寺院に行って、のんびり日記と手紙を書いた。できるだけ無駄な動きをしてはいけない。非常に暑い。

30分ほど寺院で昼寝をして、ぶらぶらと宿へ帰り、昨日夕食を食べたレストランでチャーハンを食べた。帰ってしばらく読書。

夕方6時ごろ、近くの寺院へ涼みに出かけた。今日は煙たい。Small Marketに戻り夕食に春巻きを食べ、もち米をかって麺を食べる。またもや腹一杯。帰りにマンゴーを買って食べた。甘い。

川辺の安いビアラオを飲もうと思った。ホテルの人に、なぜ安いのか聞いてみると「高い方はFirst Beerだ」とのこと。どうやら、一番しぼりのことか。First Beerを薦められたので、今日はホテルで飲むことにした。このあたりはヤモリがとても多い。

明日はVan Viengに発つ。そのことをChrisと話したところ、どうやら彼も明日Vang Viengに発つということが分かった。オランダ風の発音かもしれないが、彼はずっと「ファン フィエン」と言っていたので、Van Viengのことを指していることがわからなかった。

ビールを飲みながら、自分がすでに24歳になっていることをひしひしと感じていた。これが学生時代最後の旅だ。ちょっと前まではずっと学生を続けたいと思っていたが、今は自立したい気持ちが強い。しっかりと自分を見つめながら生きていかないと、すぐに40,50歳と歳を取っていくに違いない。

明日、ルアンパバーンを発つ。

1999/03/11(ルアンパバーン→Van Vieng)

5時半過ぎに起きた。今日hあバスでVan Viengに向かう。バス乗り場に着いたのが7時前。7時発のバスに飛び乗る。今日はトラックバスではなく、一応ちゃんとしたバスである。少々狭いが。

ルアンパバーン-カシ間はくねくね曲がった道をどこまでも登っていった。かなり高度は高いはずだ。途中、何もないところでトイレ休憩。男は適当なところで用を足すが、女はやや離れた藪に隠れて用を足していた。あまり離れすぎるわけにも行かず、かと言って、目の前でするわけにも行かず。峠を越えると、石灰岩質の奇怪な形の山が多くなり、険しく切り立っている。車中では、隣が日本人、も一方の隣がFrantiscaというスイス人女性。

無事にVan Viengについた。今のところ、山賊がでるような緊張感は感じられなかった。前に聞いていた話しでは、武装警官が同乗する、ということだったが。Van Viengについて、ChrisとFrantisca、それにJohnというオランダ人のおじさんと宿をシェアすることになった。宿の名前は「SENG SAVANG GUESTHOUSE」。

「川に行って泳ごう」と僕が提案し、4人で川に泳ぎに行った。時々泡が浮いているが、メコン川に比べると、格段にきれいだ。空気が霞んでいるので景色があまり楽しめないが、水温はちょうどよい。気持ちよかった。

今、この町は正月らしい(ラオスの正月は4月と聞いたが)。いろんなところで大きな音で音楽が鳴り、酒を飲んで騒いでいる。この町は、落ち着いていたルアンパバーンに比べて断然Excitingだと感じた。宿に帰って、2時間ほど昼寝をした。

夜はお祭りのようなものをやっていた。何の祭りかはわからないが。ここでフエイサイからボートで一緒だった人の何人かとまた出会った。旅するコースや日程は、ここでは誰もみなほぼ同じなのだろう。多分ヴィエンチャンでも会うかもしれない。ルアンパバーンであった、カナダ人のお爺さんと会ったので、夜1時くらいまで一緒にビールを飲んでいた。

1999/03/12(Van Vieng)

8時ごろ起きて、1人で朝食を取り洗濯をすませる。Johnと一緒にTham Tang洞窟に行こうとしていたが、Johnの準備に時間がかかり、先に言っていたChrisとFrantiscaが帰ってきたので、午後に行くことに下。

浮き輪にのって、川下りをしよう、という話になり、4人でトゥクトゥクを借り、15分くらい離れた小さな村に行く。ここの近くにも洞窟があるという。浮き輪がなく、川下りはできそうになかったので、その洞窟に探検に行くことにした。

まず、裸足で川を渡る。川で戯れいていた水牛たちがいっせいに逃げ出す。そこから先は背丈より高い草がうっそうと茂った平原だ。1時間ほど歩き回って洞窟を探したが見つからない。周囲はまさに野生の王国。戻ろうとしていたところで洞窟が見つかる。本当の自然の洞窟だ。案外深そうである。ここで昼食のサンドウィッチを食べる。とても静かだ。誰も何もしゃべらない。とても涼しい。

帰り道に迷ったが、何とかして村へたどり着く。この村はモン族の村であろうか。水牛がいる川で少し泳いで、村へ戻った。子供たちがとても元気だ。「サバイディ」という言葉がとても快濶でとても気持ちがいい。村の子供たちにカメラを向けると、恥ずかしがって一目散に逃げ出す。

一旦、Van Viengに戻り、1人でTham Jang洞窟に行った。のんびり歩いて40分程の距離。のどかなところだ。4時15分について、洞窟に入ろうとすると、「もう今日は終わりだ」といわれた。「明日、ヴィエンチャンに発つから、入れてくれ」と頼むと、OKしてくれた。いい加減なものだ。ちなみに、このあたりの物の値段もいい加減である。定価と言うものがない。ものの値段がいろいろであるし、バスの時間を聞いても、皆いろんなことを言う。

宿にもどり、ChrisとJohnと3人で夕食を食べた。そこに、Johnの友人がきて、「近くでオピ○ムができるところがある」と言うので、行ってみることにした。皆初体験だ。薄暗い部屋に通された。数人の現地人が横になっている。1人が筒に何かを塗りつけて燃やし、その煙を順番で吸う、という形式である。吸っている最中は気付かなかったが、終わって立つとクラクラと来た。酒に酔った感じだ。しかし、思考ははっきりしている。宿に戻って横になるととても気持ちが落ち着く。なんだか、何もやる気が怒らなくなり、ただ横になって何も考えないことが快適だ。Johnなどは本当にフラフラになって帰ってきた。

明日の朝の出発は早い。Christらに別れを言った。ルアンパバーンで偶然会ってから、数日間、一緒に旅をしてきた。彼は、この後ジャー高原へ向かうと言う。まだ、オピ○ムが効いたまま、眠りについた。

1999/03/13(Van Vieng→ヴィエンチャン)

昨夜はあまり眠れず、何度も起きた。5時20分に起きて出発のッ準備。6時のヴィエンチャン意気のバスに乗った。生活の足なのか、ちょこちょことよく停車したが、10時ごろヴィエンチャンに着いた。

さて、宿はどこにしようか。例によって、地図以外はガイドブックを持たずに日本を出発したので、ヴィエンチャンのどこに宿があるのか分からない。安宿街などもあるのだろうか。

とりあえず、トゥクトゥクに宿に連れて行ってもらうことにした。それからが大変だった。彼らはホテルからリベートをもらうことしか考えていないらしく、適当なホテルに一軒ずつ連れて行く。カオサンのようなところに連れて行ってもらいたかったが英語も通じない。仕方なく、Tham Luangという寺院の近くの一泊100Bの宿に泊まることにした。結構辺鄙なところで、宿も地元の人専用のようなところだった。

一時間ほど昼寝をして、町を見物に行った。といっても、中心部からは離れているし、案外街も広いし、結局Vientian Monumentにしか行けなかった。ラオスのほかの都市にくらべると、圧倒的に大都会だが、僕にとっては退屈な街だった。どうせなら、今日中にタイ国境のNon Khaiまで移動し、タイのどこかに泊まればよかった、と思った。仕方がない。

夕食はGuesthouseでチャーハンを食べた。宿泊者にデンマーク人がいたので、宿のオーナーと雑談をした。宿の名前は「KANLAYA GUESTHOUSE」という。話をしているうちに、それほど悪い宿ではない気がしてきた。

ビアラオがうまい。最後のビアラオだろう。Vientianはさすがに今までの都市の中では一番南にあるので、暑かった。明朝はボーダーまで行って見ようと思う。朝6時から空いているらしい。

1999/03/14(ヴィエンチャン→ノーンカイ)

朝一番でボーダーまで行こうと思っていたが、眠かったので8時ごろまで寝ていた。身支度をして8時半ごろ出発。トゥクトゥクでMorning Marketまで生き、そこからバスで国境へ。バスの中で少年の僧侶と話す。

小一時間で国境へついた。国境の建物は、驚くほど立派だった。初めてラオスでエアコンが効いた建物に入った。タイ入国も簡単だった。正式には陸路ではVISAなし入国は認められていないらしいが、10Bを払って難なく通過。トゥクトゥクでNon Khaiの駅へ向かう。

駅で明朝9時半にバンコクに着く列車のチケットを取った。かなり席が埋まっているらしく、寝台は上段しか取れなかった。

時間があるので、街の中心部へ出かけてみる。やはり雰囲気はがらりと変わる。発展しているし整然としている気がする。暑い。とにかく暑い。国境の川べりでビールを飲む。無駄に時間が過ぎていく。近くにいた日本人がガイドブックを持っていたので、見せてもらい、明日バンコクに戻った後は、パタヤのビーチに行ってみようか、と思った。旅の最後だ、のんびりしてやろう。

夕方5時半ごろ駅に戻った。そこで、僕がまだラオスに入る前に、タイのチェンコンで出会ったオーストラリア人に再会した。打ち合わせもしていないのに、本当に皆同じコース、同じスケジュールで動いているんだな、と思った。列車には7時過ぎに乗った。列車の中では、フエイサイから一緒にボートで下ったWendyというカナダ人女性、そして、なんとJohnまでもがいた。まったく、今回のたびは再会が多い。おもしろい。そして、Johnが言うには、Van Viengで僕が宿を出た後、僕がJohnの分まで、宿の部屋の鍵を返してしまっていたそうで、大変だったのだそうだ。悪いことをした。

車内販売の弁当を食べ、ロバート・B・パーカーを読む。スペンサーはいつも格好いい。その後、上段のベッドに就く。しかし、これが最悪だった。上段は窓もなく、カーテンを閉めてしまうと、天井にある扇風機の風も当たらなくなるのだ。死ぬほど暑い上に、揺れも激しい。汗をびっしょりかきながら、何とか寝付いた。

1999/03/15(バンコク→パタヤ→バンコク)

列車は9時半、バンコクのファランボーン駅に着いた。WendyとJohnに別れを言う。もう、二度と会うことはないだろう。Wendyはこれからネパールに行くと言った。

さて、今日は強行軍であるが、パタヤのビーチまで足を伸ばすことにした。バンコクに一日いてもすることがないのと、たびの最後にリゾートでゆっくりしてみたかったからだ。

トゥクトゥクで東バスステーションまで行く。バンコクのトゥクトゥクは速くてかなり怖い。10時40分のパタヤ意気のバスに乗る。午後1時ごろパタヤに到着した。

パタヤという街は、やや寂れた雰囲気もする昔からの観光地、と言った趣のある場所だった。呼び込み宿風の場所も多い。荷物を起きたかったので、どこか安宿を探す。ややいかがわしい宿に部屋をみつけた。ライトはピンク色。こういうところに絶対1人で泊まりたくない、と言った部屋だった。とりあえず、荷物をおき、水着に着替えて、昼食にヌードルを食べビーチへ。

人は思ったより少ない。欧米人だらけだ。旅の最後にとんでもなくツーリスティックなところに来てしまったようだ。海の水もにごっており、あまりきれいではない。

ビーチの寝椅子を20Bで借りて日光浴をした。というか、日光浴くらいしかすることはなかった。次第に焼けるように暑くなった。今回の旅を少しだけ回想した。よい旅立ったと思う。出会った人々がなんと言っても良かった。旅行者から現地の人まで、いい人ばかりだった。Chris、John、Frantisca、Wendy、Bill、オーストラリア人二人…。再会を繰り返すたびに、なんとなく絆が感じられ、会うたびに嬉しい気分になった。

さて、帰りのバスは5時30分にパタヤを出た。バンコクの東ターミナルに着いたのが夜8時前。屋台でモツ煮込みのようなものを食べ、ファランボーン駅へ。今回はとりあえずバスに乗ってみようと思った。エアコンバスだ。1時間もしないうちに駅に着いた。今から空港へ向かわなければならない。

夜10時発のチェンマイ行きの列車に乗ることにする。駅の2階でビールを飲む。日焼けで体が焼けるように暑い。

今回の旅は、いつもと違っていた。とても充実していた。時間の使い方がうまくいった。また、あまり無理はしたくなかったし、無駄に長くいたいとは思わなかった。もうじき、社会人としての生活が始まる。どちらにしろ、このようなスタイルの旅はこれが最後になるだろう。人の温かみを多く感じた旅であった。

1999/03/16(バンコク→ソウル→日本)

帰りの機内ではほとんど眠れなかった。朝9時にソウルへ到着。午後、KIXへ無事到着した。

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